2020年10月4日

「公助」は辞書になし(下)。ネアンデルタール人と自己責任

投稿者: hi_sakamoto

2016年の津久井やまゆり園殺傷事件(神奈川県)は衝撃を与えました。障害者は「生きる価値がない」などといって多数の障害者を殺傷した事件でした。「自己責任」という時代の重い空気が、人々の思想に大きな影響を与えていたことは十分に伺えます。学びの場でも労働の現場でも人々が分断されているようなところでは、「能力のないもの、劣るものはお荷物だ」という空気が支配しているのではないでしょうか。そういう世界では、人間は生き生きと自分の能力や個性を発揮することはできず、萎縮していきます。

ネット上でいろいろ調べていると、ネアンデルタール人の遺跡が発掘され、その中に明らかに障害者だった人が十分な寿命を全うし、他の人と同じように手厚く埋葬されていたということが明らかになったという記事がいくつか見られました。【「ネアンデルタール人+障害者」検索参照】

その障害者はおそらく生産活動においては力を十分に発揮できない一方、介護など多くの人手を必要としたに違いありません。生産力が十分ではない太古の社会にもかかわらず、集団内の障害者を一人の人間としてしっかりとサポートしたという証拠が発掘されたのです。(動画の内容は、本文の内容とは関係ありません)

生まれながらにして生産活動に従事できない人や、怪我をしたり失敗をしたりした時でも、一人の仲間として尊重され、必要なだけの分け前が与えられたのです。そのような集団こそ、強い「絆」で結ばれ、集団力を発揮することになります。能力の劣っている人をカバーするために、より高い能力をもつ人はその水準をさらに越えようと努力することになります。そのような努力家は、集団の中で高い評価を与えられたと考えられ、一方、努力をせずフリーライドするような者は、集団の中で低い評価を与えられたことでしょう。個々の能力や個性は、集団の能力と密接不可分なのです。

自分の責任に帰さない身体的・精神的能力の大小によって評価され、平均的な仕事ができないものは努力が足りない、だから分け前も少ないのは当然だ、という考えは、今日でいうところの「自助努力」「自己責任」論です。

個人を社会を構成する大切な一人として位置付け、限られた資源と富を必要に応じて配分していた原始社会が、ホモ・サピエンス史の圧倒的な時間を占めていたわけです。その時代と比べはるかに巨大な生産力を獲得した今日の社会で、一体なぜ貧困が拡大し、一方で巨万の富をさらに蓄積していく企業や富裕層を容認しているのでしょうか。

日本国憲法第25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」としています。

国は、国民が人間としてい生きていく上での最低限度の生活を保障する義務を負っているのです。国の責任を放棄し人々に自己責任を押し付ける「自助・共助・公助」という言葉は、「死ぬのはお前の努力が足りないからだ」という冷たい言葉であり、一国の首相が発するものではありません。これは、人間社会の本質と真逆の言葉と考え方であり、これに徹底して対抗していく必要があるのです。

「公助」は辞書になし(中)に戻る

「公助」は辞書になし(上)に戻る